「号外」って知ってる? 大きなニュースが飛び込んできたときに、新聞社が世の中にいち早く伝えようと緊急で発行して、街なかで配る特別な新聞のことだよ。朝日新聞社に聞きました。
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大きなニュースを伝えるために緊急に無料で配る新聞のこと。
号数(創刊からの通し番号)がつかないから「号外」と呼ばれるよ。
これは、2023年3月22日に朝日新聞が出した号外の1面(表紙)です。ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)で、日本がアメリカに3対2で勝ち、3大会ぶり3回目の優勝をしたことを伝えています。
時代とともに号外も変化
朝日新聞で号外を担当する部署、コンテンツ編成本部次長の黒川真里会さんに、号外について質問しました。
▲朝日新聞社コンテンツ編成本部次長の
黒川真里会さん
朝日新聞は1年でどのくらい号外を出すの?
2023年は約10件でした。号外を出すかどうかは、ニュースの発生次第。コンテンツ編成本部が、紙面づくりの責任者であるゼネラルエディターと相談するなどして、発行を決めます。
どんなニュースが号外になるの?
最近は、記念としてとっておきたくなる喜ばしいニュースが号外になりやすい傾向があります。2023年は、WBC優勝のほか、プロ野球の「阪神タイガース日本一」、将棋の藤井聡太新名人誕生、高校野球などのニュースが号外になりました。
号外はどこで配るの?
たくさんの人が歩いている場所が選ばれます。東京だとJR新橋駅前などです。号外ができたら、配達を担当する部署に限らず、編集局の人も協力して、安全に配慮しながら配ります。私も参加したことがありますが、喜んで受け取ってくれる方や、コレクションのために他の新聞社の号外と一緒に集める方がいたのが印象に残っています。
「号外」のデジタル版もあるってホント?
ホント。近年は、朝日新聞デジタルや専用アプリ「紙面ビューアー」でも号外を出します。新聞発行を休む「休刊日」に、「休刊日号外」という号外を出したり、突発的な出来事について「ビューアー号外」を出したりします。今後も、ときには号外という形もとりながら、紙とデジタルの良さを生かして、世の中にニュースを届けていきたいです。
号外発行の流れ
2024年の元日、石川県の能登半島で、最大震度7の揺れを観測する「能登半島地震」が起きました。住宅約2万8千棟が全半壊し、245人が亡くなりました(※)。新聞記者は災害が起きたとき、安全に気をつけながら、取材で現地に入ります。金沢総局の小崎瑶太記者にリポートしてもらいました(写真も)。
※2024年4月時点。避難生活などの中で亡くなる「災害関連死」の疑いを含む。
かばんをつかみ、被災地へ
2024年1月1日午後4時10分、わたしは金沢市内の家にいました。突然、とても大きな揺れが襲ってきました。部屋には本などがちらばり、テレビでは大津波警報が出たと言っています。かばんをつかみ、車で被災地に向かいました。数日分の水と食料も持ち、ガソリンを満タンにしました。
午後8時ごろ、金沢市から約70キロ離れた能登半島の七尾市に着きました。水は出ず、たくさんの建物が倒れています。夜が明けてから再び出発すると、見えてきた被害の様子に衝撃を受けました。山はくずれ、土砂が道をふさいでいます。車を降りると、道路にはわたしのひざくらいまでの大きな段差がありました。スマートフォンの電話も通じません。周りの人と一緒に道を探し、進みました。
被災した店などに立ち寄り、避難している人たちに取材すると、「どうやってここまで来たのですか?」と何度も質問されました。ガソリンが足りない人。食べ物が足りない人。必要な物資を得て、生きていくために「情報」が必要でした。わたしもできる限り知っていることを伝えながら、現場の声を届けようと、メモを取り続けました。
▲2024年1月4日付の朝日新聞石川県版。水と食料が足りないことなどを伝えている
家の倒壊、津波…「命あっただけよかった」
1月2日、能登半島北部にある珠洲市に着きました。家が倒れ、道をふさいでいました。まちを歩くには、倒れた家の屋根や柱の上を通るしかありません。「大変やけど、命があっただけよかったと思ってがんばろう」。そんなやりとりが聞こえてきました。
海の近くでは、津波に流されたのか、車がほかの車に乗り上げていました。ある男性は「津波が来ると思って必死で走りました。『もうここで死んでもいい』と家族が言うので『そんなこと言うな!』と言って避難してきたのです」と言います。大変な経験をしている人たちが話してくれたことを、何とか原稿にしようとパソコンに打ち込みました。
▲珠洲市飯田町の倒壊した家屋。津波で一面に泥が広がった= 2024年1月6日
これからも能登半島とともに
大きな地震が続いている能登半島ですが、どこまでも続く海岸線、青い海や真っ白な雪がとてもきれいな場所です。そして能登の方々は取材で訪れたわたしに「お疲れ様です」「ありがとうね」と声をかけてくれて、人の温かさも感じます。もともと人が少なく過疎化が進む地域と言われていて、今後はわたしたち1人ひとりが、復興のために、こうした課題と向き合う必要があります。
地震発生から3カ月たった2024年4月。被災地の小中学生も、入学や進級など、あたらしい一歩を歩み始めました。一方、地震で火災に遭った輪島市の朝市通りの焼け跡には、新しい花束が手向けられ、珠洲市でも多くの倒れた建物がそのままになっています。いまも大切な人を待つ人、ふるさとの復興を願う人がいます。そんな被災地の様子を取材してきたわたしも、被災された方々の思いや、まちの復興を、これからも一緒に見つめていきたいと思っています。
▲大規模火災で焼失した輪島市の「朝市通り」に手向けられた花= 2024年4月3日
▲小崎瑶太記者=2024年4月13日、珠洲市の飯田港