[サザビーズジャパン代表取締役会長兼社長]石坂泰章(いしざか やすあき)さん
1956年、東京都生まれ。幼少期をアメリカやドイツなどで過ごす。成蹊大学法学部卒業後、三菱商事に勤務し87年に退職。20世紀美術の画廊を経営し、日本の国公立美術館などに現代美術の名作を数多く納める。2005年から14年までサザビーズジャパン代表取締役社長を務め、数々の美術品の大型取引を手掛ける。美術館や企業などにコレクション形成をアドバイスする自身の会社を経て18年から現職。東京芸術大学非常勤講師。著書に『巨大アートビジネスの裏側-誰がムンクの“叫び”を96億円で落札したのか』(文春新書)など。
大学卒業後に勤めていた商社を辞めて、アートの世界に入ろうと思ったきっかけは?
父の赴任で9~12歳までドイツで過ごしました。母が美術好きで家族旅行に出かけては、いろいろな美術館に連れて行ってくれたのが、アートに興味を抱く最初のきっかけです。南フランスのピカソ美術館で「ぼくにも描ける」とジッと見ていたのが、ピカソの牛の3連作のドローイング(笑)。オランダの美術館で「糸杉が風になびいている絵がきれい」と思ったのはゴッホ。その迫力は今も心に残っていますね。
もう一つは、ドイツの友達の家に遊びに行ったときに父親が自宅で仕事をしていて、昼になると家族とランチをしていた様子が印象的で。鋼材などのディーラーだったようですが、当時の日本は高度成長期でサラリーマンになるのが一般的だったので驚きましたね。そんな経験もあって、これからは日本も「クオリティ オブ ライフ」が求められるだろうから、感性に携わるような美術の仕事ができたらいいな、と思って会社を辞めて画廊を始めることに。
「アートビジネスの基本的な仕事は『絵画を売る』ことですが、オークションで一番大事な仕事は『作品を売る人を探す』ことです。私が画廊でやっていたことと近いですね」
アートの知識はどこで身に着けたのでしょうか? また、アートに関わる仕事の魅力とは?
20年2月に行われた、ハースト婦人画報社主催のチャリティーオークション「メセナ・ガラ2020」で、司会進行役のオークショニアを務める石坂さん。「印象に残るオークションはニューヨークでドガの名作を私が手を上げて40億円で落札したとき。手に汗握る思いをしました。歴史的な作品が新たな場所に行くお手伝いするのは責任重大です」(写真提供:HISASHI MIYAKAWA)
大学は法学部で美術の勉強はしていませんし、商社では肥料を扱っていました(笑)。画廊を始めてから作家に会いに行ったり、美術館の学芸員の海外視察に同行して普通だったら見られない裏側を見せてもらったり、そんな地道な経験を積みながらアートの知識を身に着けました。現場のたたき上げなんですよ(笑)。
アートの仕事をする最大の魅力は、いい作品に出会えることです。当時の画廊は、有名な作家を自分たちで抱えながら、作品を展示して売り買いをするというビジネスでした。私も画廊を構えましたが、日本で展示会をやっても売れません。ミュージアムピース(美術館にふさわしい名画)を探すことにビジネスチャンスがあると思い、美術館やコレクターが探している美術品を私が探して納めていました。そこでいい作品にたくさん出会いましたね。その18年間の現代美術の画商としての経験や総合商社という大組織に勤めた経験を買われて、オークション会社サザビーズジャパンの社長になりました。
オークションというと、高額の美術品が落札されたときにニュースで見るくらいです。オークションについて基本的なことを教えてください。
(上)2021年1月ロンドンのオークションに出品されたボッティチェリのカタログ。(下)コンテンポラリーアートのカタログ。左の表紙は、20年7月香港のオークションで約16億円で落札されたデイヴィッド・ホックニーの作品。右は同年10月にロンドンのオークションに出品されたモネをモチーフにしたバンクシーの作品。約11億円で落札
オークションは、何かを売りたい人が出品し、それを買いたい人たちが競って一番高い金額を付けた人が買うことができる公平で透明性の高い取引です。主にニューヨーク、ロンドン、香港、パリの会場で行われます。個人のコレクターや美術館など、世界中の誰でもオークションに参加できますが、実際に入札するためには支払い能力があるか、反社会的ではないかがチェックされます。
オークションがフリーマーケットと違うのは、各分野の専門家である「スペシャリスト」が作品を査定し、落札予想価格を決めてから出品することです。オークション会社は本物かどうかの判定はしませんが、作品によって鑑定書があるか、美術書に載っているかなどを条件に質を保証するシステムです。それでも間違えることはあるので、5年以内に偽物と分かったときは代金の全額を返済します。サザビーズジャパンには取り扱い分野の担当者がいてオークションの出品作品を集めたり、顧客とスペシャリストとの間を取り持ったりしています。
実際のオークションはどのように行われるのでしょうか。コロナ禍で変わった点はありますか?
2020年6月に16万人が視聴したニューヨークのオンラインオークションの様子。(上)各国のブースが映し出された画面を前に、サザビーズを代表するオークショニアがロンドンからリモートでオークションを仕切る。(下)ニューヨークのオークション会場。背後には出品された作品が並ぶ。昨年1年間のオンラインでの年間総売り上げは前年比6倍に。(写真提供:Courtesy of Sotheby’s)
オークションでは「オークショニア」と言われる人が司会進行役を務めます。独立した職種ではなく、印象派なら印象派部門の「スペシャリスト」がオークショニアとして大舞台に立ちます。オークショニアは「50万、次は70万!」とスピード感を持って会場を仕切りながら、売買が成立するとハンマーをバーンと振り下ろすエンタテイナーでもあります。「手を上げているの? それともお母さんにバイバイって言っているの?」というユーモアで会場を盛り上げ、それによって思わずもうひとビット(入札)ということもあります。
これまでは、世界中の社員がロンドンなどのオークション会場に行き、会場に来られない顧客の依頼を電話で受けていました。私も日本のお客様の代わりに会場で電話を受けながら手を上げていましたが、コロナ禍で従来のライブオークションができなくなり、オンラインオークションが一気に加速。出品作品は事前にインターネットのバーチャルギャラリーで見ることができ、各国のブースをリモートでつないだ、オンラインとライブとの融合型オークションが行われるようになりました。
アートに関わる仕事を続ける上で、一番大切だと思うことは何でしょうか?
石坂さんがサザビーズに来てから発行するようになった、ニュースレター「WHITE GLOVE(ホワイトグラブ)」。顧客向けにオークション作品の紹介やアート情報を掲載している
絶えずアートを「見る目」を養うことが大切です。それはオークションに関わる人だけでなく、画廊や研究者でも変わりません。その見る目を養うためには「いい作品」に触れる必要があります。では本当に「いい作品」は何かというと、分野によっても違いますが、例えば西洋美術ならキャンバスをぱっと切っただけの現代美術家、ルーチョ・フォンタナのように、パラダイム(その時代の当たり前の価値観)を変えるような発想があるものです。
直感的に「いい」と感じても、美術書を見たら昔の作品のまねのようなものは本物ではありません。「気に入った作品があれば調べてみる。そしたら大したものではなかった。また別のものを見る」ということの繰り返しです。本当に重要な作家や作品は、「それを抜きに後世を語れない」というもので、評価はおおむね死後30年しないと定まりません。
アートに興味がある子どもたちに、どんなメッセージを伝えたいですか?
「アメリカの学芸員は、何かで財をなしてアート作品の購入に興味がある人に熱心にアートを教えることをします。なぜならその人がいい美術品を買ったら、いずれその作品を美術館に寄付してもらえるチャンスができるからです」
アートはまったく役に立たないものです(笑)。役に立たないから、表現の発想を大胆に変えることができます。20世紀のアメリカの画家、エドワード・ホッパーが「言語と数字ですべてを語ることができるなら、アートはいらない」と言ったように、言葉で表現できないことを表現できるアートだからこそ、作品の前に立ったときに理由もなく感動できるのです。自分の物事の見方が変わり、広い視野で世界を見ることができるのがアートのすばらしさです。
日本は豊かで何でもあるように感じるかもしれませんが、アートビジネスに関しては海外に比べて本当に限定的です。スペシャリストも少ない。でも、まだ日本では成熟していないジャンルだからこそビジネスチャンスがあります。いい作品を見続けてアートに対する感性を育み、セールスマン的なセンスを磨いていけば、アートの世界でイキイキと活躍できると思います。ぜひそういう豊かな生き方をする人が小学生や中学生の中から出てくることを期待します。