過酷なグレートジャーニーをやめなかった理由とは

2020.06.05 わたしのしごと道

[探検家・医師 ]関野吉晴(せきのよしはる)さん

1949年東京都生まれ。75年一橋大学法学部卒業。82年横浜市立大学医学部卒業。一橋大学在学中に探検部を創設し、アマゾン全域踏査隊長としてアマゾン川を下る。その後25年間南米への旅を重ねる。医師(外科)として武蔵野赤十字病院などに勤務。93年、アフリカに誕生した人類がユーラシア大陸を通ってアメリカ大陸にまで拡散した約5万3千キロの行程を、人力だけで逆にたどる旅「グレートジャーニー」を10年の歳月をかけて遂行。2004年~「新グレートジャーニー 日本列島にやって来た人々」をスタートし11年にゴール。1999年、植村直己冒険賞受賞。2002〜19年武蔵野美術大学教授(文化人類学)。

関野さんはアマゾンをはじめとして長く探検の旅をされてきました。そのスタートは大学での探検部ですが、ずっと探検をしたいと思っていたのでしょうか?


「親のすねをかじりながら好きなことはできないので、大学の学費も生活費も、奨学金とバイトだけでやりくりしました。そのうちに海外で撮った写真も売れ、雑文を書いてお金がもらえるように」

探検をしたいというよりは、海外に行きたかったんです。当時は海外に行くのはとても難しくて、登山など「学術探検隊」として文部省(当時)に申請して認められないと行けなくて。海外に行くために自分でサークルを作り、他の大学ではどう呼んでいるのかと調べて、探検部と名付けました(笑)。

人が行ってないところに興味があって。アフリカでもインドでもよかったのですが、「一番未知なところは?」と思った時にアマゾンが浮かんで、最初に行った海外がアマゾン。そこに1年間いました(笑)。


僕の親は子どもの頃からいろいろうるさくてね。勉強しろと言われたことはないのですが、非常に心配性で、一人で山に行くと言ったら「危ないからやめろ」、アルバイトをしようとすると「余計なことするな」というように。だから大学入ったら「本当に好きなことをやるんだ!」と思っていましたね。

大学には14年通い、医師として勤務しながらも南米への旅を続けられました。その後、人類のルーツをたどる旅「グレートジャーニー」を始められたきっかけは?


1997年、アラスカの雪原を犬ぞりで進む関野さん。医師としての収入はあるものの、旅をするときは友達からお金を借りて行くというスタイル。グレートジャーニーも借金をして旅を始め、半年で資金が尽きてしまう。そんな時フジテレビが映像を買い取り、ドキュメンタリーとしてテレビ放映してくれた(写真提供:関野さん)

法学部を卒業後に社会学部に学士編入しました。将来の職業を考えたとき、写真家、ジャーナリスト、研究者などの選択肢がありました。でもずっと先住民と同じ屋根の下で暮らしてきたので、彼らを調査や取材の対象にしたくなかったんです。医者になれば友人として付き合っていけるし、彼らの役に立つ。生活費も稼げる。心や体に関心があったこともあり医学部に入り直しました。


20代はアマゾン、30代からアンデス、パタゴニア、ギアナ高地など範囲を広げつつ南米に20年以上通っているうちに、先住民が日本人と似ていることに気付いて。「この人たちは一体どこから来たんだろう」という疑問が生まれ、アフリカに誕生した人類が移動したルートを逆にたどる「グレートジャーニー」を40代半ばで始めました。南米から出発してアラスカ、シベリアを経由してアフリカまでの道のりを人力だけで移動し、足掛け10年かかりましたね。


その後「人類は日本列島にどうやって来たんだろう」と思い始めて。シベリアから北海道・稚内までの「北方ルート」、ヒマラヤから朝鮮半島を経て対馬までの「南方ルート」、インドネシアから沖縄・石垣島までの「海のルート」をたどりました。

新グレートジャーニー最後の「海のルート」では、関野さんが教えていた大学の学生たちも参加しましたね。学生たちにどのような変化がありましたか?


(上)手製の斧で丸木船を作る(2008年)。(下)帆に風をいっぱいに受けて航海する縄文号とパクール号(09~11年)。「最初は缶詰の缶切りができなかった学生たちですが、最後は鉈(なた)で開けられるほどたくましくなっていきました。『僕たちが変わったのは、それだけじゃないです』って彼らは言いますけど(笑)」(写真提供:関野さん)

全部自然の素材で作った丸木船で約5000 km 航海するというのが「海のルート」です。グラスファイバーのカヌーでは面白くないと思って、全て自然の素材で船を作りました。航海は卒業生だけでしたが、船作りは学生も一緒にやりました。


学生の変化といっても、内面的なものが多いので説明が難しいのですが、確かに皆変わりました。だって鉄を作るところから始めるわけですから。昔から鉄を制する者が世界を制してきたんです。世界を制するのに必要なのは軍事力と経済力です。軍事力、つまり兵器は鉄です。経済力は農業で、農機は鉄です。


「たたら製鉄」で5 kg の斧(おの)や鉈(なた)を作るために、砂鉄120 ㎏を集め、炭を300 kg 焼くのですが、その炭を作るのに3トンの松が必要でした。「鉄の歴史=森林伐採の歴史」でもあります。ゼロから作るということは、いろいろなことに気付きがあります。

未知の世界を旅する中で、先住民の方と付き合うコツのようなものはあるのでしょうか?


ペルーのアマゾン川流域・マチゲンガの人々と(1977年)。「アンデスでは1年目は全然相手にされず、2年目も特に何もなく。3年目に3カ月いたら、やっと『赤ちゃんの髪の毛を切ってくれ』と言われたことも。幼児断髪儀礼で、本来なら土地の有力者などが担う洗礼のようなものです。写真を撮ろうとしたらジャガイモを投げつけるような母親が、僕が我が子の髪を切っている間に顔がとろけるように柔和になっていく。それが3年目です」

人と付き合うコツなんてないです。あるとしたら僕の最大の武器は時間ですね。そのことに最初の旅で気付いて。


アマゾン川をボートで下っているとき、途中の村に泊めてもらおうと、川辺にいた青年に寝袋を出してボディーランゲージで「一緒に行こう」と誘ったら、小屋に連れて行ってくれました。でも、村人と話すきっかけにしようと一番年配の女性に鏡やマッチなどを渡しても拒否され、男たちが狩りから帰ってきても寄ってこない。ものすごく寂しくて孤独で、ここに来たことを後悔しました。


寂しさ紛れに童謡を歌っていたら、子どもたちが寄ってきてね。僕が「うさぎおいし」と歌うと「うさぎおいし」とまねを始めて、なかなか帰らない(笑)。実は暗闇の後ろに大人も大勢いて、プレゼントを拒否したさっきの年配の女性が巻き貝みたいなごちそうもくれて。


歌という普遍的なものによって距離がぐっと近づいたことがうれしくて。さっきまで「こんなところに来なきゃ良かった」と思っていたのが、「来て良かった!」に変わるわけです。でも翌日村を出るときは特に送ってくれるわけでもなく(笑)。旅はそんなことの繰り返しです。でも時間をかければ、何かのきっかけで打ち解けられるという自信はあります。

人力だけの過酷な旅を続けてこられましたが、途中でやめたいと思ったことはありませんか? また未知の土地へ旅をし、異文化を体験することで得られることとは?


テントや寝袋などはもちろん旅の必需品だが、欠かせない道具のひとつが粘着テープだという。「壊れたテントの修理をしたり、ボロボロの道路を走って壊れた自転車のタイヤを修理したり。あるもので工夫しながら旅をするのが面白いんです」

旅を途中でやめたいと思ったことは一度もないです。なぜかと言うと、もっとつらい思いをしている人をいっぱい見ているからです。世界の様々なところで「食えない」というのは餓死を意味します。僕の旅がつらいといっても、難民や政治的に迫害されている人の比じゃありません。自分が好きでやっていることなので、やめたとしても誰も文句は言いません。むしろ家族は喜んだでしょう(笑)。もし頼まれてやっていることなら、やめていたと思います。


旅をすることは、自分にとって未知なるものに気付くことです。自分のものの見方や考え方をどのように変えられるか、それを自分のものにしていけるかが異文化や未知なものに接する喜びです。一番いいのは目からウロコが落ちるような経験ですが、そんなことはめったにありません。小さい発見や小さい気付きの積み重ねですね。

子どもたちがこれから職業選択を考えていくときに、どういう視点が大事だと思いますか? 


「適応能力はその場に行けば自然に培われていきます。それは鍛えるもので、生まれた時から持っているものではない。何かになりたければ、それをやり続けることです。医者なら医者を、探検家なら探検を。真摯(しんし)にやり続ければ、自然に必要な能力は身に着いていきます」

職業ありきで何になりたいかを考えるよりも、好きなことを見つけたほうがいいでしょうね。でも困るのは、みんな好きなことが見つからないんですよ。


まずは失敗を恐れずにチャレンジしてみることです。その中で最初に好きになったことを一途に面白がれる人もいるでしょうが、ほとんどの人はそうではない。いろいろやってみて、「あー、これがしっくりくるな」と感じるものに出合ったときに突っ走ればいい。好きなことは懲りずにできるし、やり続ければいずれものになります。


失敗は人を育てます。成功ばかりしている人って魅力がないんですよ。問題に直面して「どうやって解決すればいいか」と考えるときに、おのずから「問い」が出てきます。親は「ヒントは与えるが、教えない」ことが大事。アマゾンのしつけや教育がそうで、手取り足取り教えないんです。痛い目にあって覚えていくというのが一番身に着くんですから。

取材・文/米原晶子 写真/村上宗一郎