360年続く伝統の花火鍵屋、家業を受け継ぐ覚悟とは

2020.04.08 わたしのしごと道

[花火師・鍵屋15代目]天野安喜子(あまの あきこ)さん

東京都出身。宗家花火鍵屋*14代目の次女として生まれ、2000年に15代目を襲名。宗家花火鍵屋15代目として日本の代表的な花火大会のプロデュースを行う。日本大学大学院芸術学研究科博士後期課程修了。芸術学博士。中学から大学時代まで柔道選手としても活躍。国際柔道連盟審判員の資格を持ち、北京オリンピックでは日本女性初の柔道競技審判員を務めた。                                                                                       

宗家花火鍵屋*とは

創業360年以上の伝統ある花火屋。「かぎや~」のかけ声で知られる。毎年夏に開催され、観客動員数日本一を誇る江戸川区花火大会(東京)のプロデュースを手がける。

大きな花火大会を担う「鍵屋(かぎや)」の15代目当主としてご活躍です。花火師の仕事はどのようなものでしょうか?


「花火は夏の風物詩と思われがちですが、春や秋の祭り、冬はスキー場やカウントダウンなど、シーズンを問わなくなりました」。花火は作り置きができないので、依頼されてから数カ月で準備をするが、大きな大会は半年前から構想を考える

昔の花火師は「花火の製造から打ち上げまで」という全ての作業を行っていましたが、今は「花火をどう組み合わせて表現するか」という演出が重視される時代になりました。花火を製造する人も花火師ですが、鍵屋として私が主に行っているのは、花火大会全体のプロデュースです。


花火には「色・形・光・音」の4つの特色があり、それを大会ごとのテーマに合わせて構成します。たとえば「桜ふぶき」というテーマの場合、桜が咲いてから散るまでを絵コンテに描いて、どんな花火が適しているか「玉名(ぎょくめい・花火の名前)」を指定します。咲き初めの薄いピンクはA工場に、花ふぶきの濃厚なピンクはB工場にと、製造工場の特性を生かした依頼をし、打ち上げたときに情景が観客に伝わるように演出します。


通常の花火屋さんと違うのは、「花火の製造後に玉をどう組み合わせていくか」を考えるのではなく、「構成を絵でイメージしてから、花火の製造へ移行する」という点にあります。

360年という鍵屋の長い歴史がありますが、天野さんの代に工夫されたことは何でしょうか?


大会当日は現場責任者として現場の指揮にあたる。花火の現場は火薬を扱うので「18歳未満は立ち入り禁止」。大学卒業後に2年間の花火製造の修行を経て、火薬類製造保安責任者免許を取得。「危険との背中合わせの仕事ですね」(写真:タカオカ邦彦)

鍵屋も時代に合わせて変化していきました。創業当時は花火の製造もやっていましたが、戦争や震災などの影響もあり、明治以降は関東周辺の協力工場に製造をお願いしています。14代目の父は「これからは演出の時代になる」と見通し、昭和中頃から演出に力を入れてきました。特に「色」にこだわりのある花火師で、色で花火の優雅さを表現していましたね。


平成になり「ストーリー性」が私らしさだと思っています。例えば「雷」がテーマだとしたら、穏やかなときから雨が降り始め、雷が「ドーン」となって、その後に虹が出てくるという一つのストーリーを考えて、花火で表現します。                                                                                                     

特に私は「音」に魅力を感じていて、音楽専門の方と一緒にテーマに合わせた音楽を選び、相乗効果として打ち上げ花火と一緒に流します。私が演出の中でこだわっている「音」は音楽だけではなく、花火の音や、打ち上げのリズム、そして間(ま)も含めてです。

当主を継ぐにあたって、女性ということで悩んだり、反対にあったりしませんでしたか?


(写真上)毎年夏に開催される江戸川区花火大会では、100名ほどの職人を統率。天野さんの合図で約1万4000発の花火が打ち上げられる。「大会を安全に終えるためには、互いの信頼関係がないとできません。『何かあったら、私が責任を負う』という覚悟で臨みます」(写真下)鍵屋によって見事に構成された「白富士」。2017年の江戸川区花火大会にて(写真:タカオカ邦彦)

私は3姉妹の2番目ですが、小学校2年生の時から自分が跡取りになると意識していました。本来なら「15代目」という肩書の重さにためらいがあるのでしょうが、家族が受け入れてくれていたので、迷いがなかったですね。


子どものころに憧れていたのは花火師という「職業」ではなく、父という「人」でした。父の真剣なまなざしに魅力を感じていたんです。同時に花火師としての厳しさも感じていて、「跡取りになるからには、人の3倍以上働く。人に認めてもらうためには弱音は吐かない」と覚悟しました。


花火師になったばかりの頃は「花火の現場は火の神が宿る場所」という感覚がまだ残る男性社会で、女性を受け入れる環境ではなかったですね。現場にはトイレがなくて、主催者が「炎天下で水分補給を我慢していたら体に良くない」とトイレを設置してくれました。今も当日現場で作業する100人のスタッフのうち、女性は5、6人という世界です。

家業を受け継がれて、「引き継いでいきたいこと」は何でしょうか? 「変えていきたいところ」はありますか?


玄関には昔ながらの紙で作る尺玉(模型)を展示。下段にある黒い冊子は博士論文。「4年かけて芸術学の博士号を取得しました。その間、柔道整復師の国家資格も取得。当時の睡眠時間は3時間です(笑)」

引き継いでいきたいことは「信頼」です。お金もうけのために仕事をするのではなく、「信頼を得るために仕事をしていけば、お金は後からついてくる」という教育を両親から受けてきました。それは鍵屋が代々受け継いできたことであり、変えてはいけないことです。


一方で、変えていきたいと思うこともあります。みんなが花火を見て「きれいだ」「感動した」と思っていても、それが学問としての「芸術」には位置付けられていませんでした。花火は芸術の視点から研究されていなかったのです。そこで花火の価値や水準を上げたいと、30歳を過ぎてから日本大学芸術学部の大学院に入って花火の研究をしました。博士論文は「打ち揚げ花火の『印象』」。花火が初めて芸術学の門をたたいたのです。


大学院に入って修士課程から、さらに博士課程に進みましたが、すでに花火師の仕事をしていて、家庭もあったのでハードな毎日でした。今どんな過密スケジュールでも、当時と比べれば頑張れますね(笑)。

柔道の国際審判員もされていますが、花火師とはどのように両立されているのでしょうか?


自宅階下にある柔道道場で。「男性の縦社会の中で女性が審判員として参加したことは、柔道界だけでなく、社会的にもインパクトがあったみたいで。新聞の社会面で紹介されました(笑)」 

大学を卒業して花火工場で修行をしていた頃に、オリンピックで女子柔道競技が正式種目となり、東京都柔道連盟でも「女性の審判員を育てよう」という機運が高まりました。父が連盟の役員をしていた関係もあり、国際大会でメダルを取った経験のある私に声がかかり、全日本柔道連盟の公認審判員ライセンスを取得しました。                                                                                        

そこからは国内でCライセンス、Bライセンスへと試験に合格して進み、Aライセンスになると、国際審判員の試験を受けるチャンスがもらえ、次にアジア大陸、世界五大陸、オリンピックとなり、さらに選ばれた人のみが決勝戦の審判ができます。


私は2008年の北京オリンピックで男子100 kg 級決勝の主審をしましたが、オリンピックの柔道競技で日本人女性が審判員として参加したのは初めてでした。


花火師の他に、柔道の審判員、柔道整復師の資格も持っていますが、皆さんに必要とされて、期待に応えるためにライセンスを持っているという感覚です。ですから間違いなくメインは鍵屋15代目。花火師というのが私の人生そのものなので、そこにゆらぎはありません。

天野さんにとって、仕事とは? 「代々続く家業を受け継ぐ」という子どもに伝えたいメッセージはありますか?


「私には娘がいますが、仕事の強制はしていません。鍵屋16代目になってほしいという期待はありますが、花火が最終的に『好き』でないとできませんし、同時に『心の強さ』も必要。また、人間性も問われますから、のれんを受け継ぐには様々な重圧を乗り越えていかなくてはなりません。これからの娘の成長が楽しみです」

仕事って、必ず誰かのお役に立てるものだと思っています。人が悲しむことは仕事ではありませんから。人に喜んでもらえることを優先して、一つの夢を掘り下げてやっていくことが大事です。「人のため、自分を好きでいるため」に何ができるかを考えています。


鍵屋のように長く続いてきた「屋号(代々続く事業名)」を継ぐためには、守らなければいけないものがあります。今の時代は「新しいもの=良いもの」と思われがちですが、「古きもの=良いもの」もたくさんあります。一方で新しいことを生み出していかないと古き良きものを守れません。伝統があるほど、時代を先読みしなくてはいけなくて、それはとても難しいことです。


でも代々続く家業を受け継ぐ背景には、人とのつながりがあります。人との出会いは宝物だと思います。「人への感謝の気持ち」を忘れずにいてもらいたいですね。

取材・文/米原晶子 写真/村上宗一郎