海外で絶大な人気 和包丁を作る鍛冶屋とは

2019.09.30 わたしのしごと道

[刃物鍛冶]武田松水(たけだ しょうすい)さん

1957年生まれ。古式製鉄「たたら」のふるさとである中国山地、岡山県新見市にある創業80年の武田刃物工場代表取締役。大学を卒業後、手打ち鍛冶の伝統技術を土台に、「青紙スーパー鋼」* を使った最高ランクの切れ味と耐久性を持つ包丁や、小刀、ナイフ、折りたたみナイフなどを製作。海外からも注目を浴び、その品質の高さに米、加、仏、伊、独をはじめとする世界諸国から注文が殺到。信頼と人気を誇る「TAKEDA HAMONO」のブランドを確立。日本の包丁人気を牽引(けんいん)する存在で、包丁は常に予約待ちの状態。http://www.takedahamono.com/

※「青紙スーパー鋼」は、日本刀などの原料である和鋼から開発されたヤスキハガネ。製造した鋼材を見分けるために付けた紙が青色だったことからその名が付いたといわれ、鋼材の種類によって「青紙」「白紙」「銀紙」などの名称がある。

「武田刃物」の薄刃タイプの包丁は、とても軽くて驚くほどよく切れます。どのような工程で製造しているのでしょうか?


火造り、鍛造の様子。炉の熱で鋼材を熱し、ハンマーで叩いて形を整えながら薄くしていく。文字通り、「鍛える」ことで金属の体質改善をする

 

モノとモノの間を切り裂くには、刃は薄い方がいいんです。包丁の厚みは重さを生んでしまうことになります。肉や魚の骨を切るためとか、丈夫さを出すための厚刃タイプの包丁やナイフには重みが不可欠ですが、それ以外は薄い方が絶対によく切れます。鑿(のみ)や鉋(かんな)の名工、千代鶴是秀(ちよづるこれひで)さんは、「刃は薄ければ薄いほどよく切れる。何もないのが、いちばん良く切れる」と言っていたそうです。
うちの刃物は1本1本手作りなのですが、ついつい自分の中の「もっと薄くしたい」という欲求に駆られて、叩(たた)き過ぎて割れたり、失敗することがあります。

刃物を作るには、金属材料を焼いては叩き、焼いては叩きを繰り返し、鍛造をして、そこから焼き鈍し(やきなまし)、焼き入れ、焼き戻しといった熱処理を施します。その間にもグラインダーで粗削り、土付け、ゆがみ取り、粗研ぎ、など、いくつもの工程があります。もとの材料も大切ですが、刃物の組織を作る厳密な温度管理や一つひとつの精緻(せいち)な作業が結果に出ます。

鋼の部分は「青紙スーパー鋼」という炭素鋼を使用しているそうですね。どんな特徴の鋼なのでしょうか?


(上)外側が軟らかいステンレス、真ん中が鋼という3層の複合材を金属メーカーに発注。中央を切断し、包丁2本分となる。これを鍛造、成形して徐々に薄くしていく過程(写真提供/武田刃物工場)。(下)完成した包丁。万能文化包丁、万能ペティナイフ、柳刃包丁など。柄は握りやすい八角形が特徴

1989年、日立金属の鋼材表で新しい材料が登場しているのを知りました。安来(やすき)工場発祥で、鉋や刃物に向いた鋼です。特殊溶解鋼で不純物が極めて少ないのが特徴。硬さもある上に靭性(じんせい)に富んでいる、つまり切れ味が持続し耐久性のある刃物ができるんです。
早速発注して使ってみたところ、扱いがすごく難しい。ほとんど失敗するんです。おそらく日本中の鍛冶屋が一斉に使って、一斉に諦めたんじゃないかな。10本作って9本は失敗。失敗すると修正はできませんから、すべて鉄屑(てつくず、スクラップ)になります。10本作って9本成功するまでに10年くらいかかりました。
みんな青紙スーパー鋼を扱う「コツ」を聞きたがるのですが、「コツ」はないんです。面倒な手間と失敗があるだけ。

お客さんからは、「これまで何本も包丁を買ったけど、いいのに当たったことがない」「最初は切れるけどすぐ切れなくなっちゃう」という声をよく聞きました。買ってすぐ切れるのは当たり前。一生涯ずっと切れる包丁、自分で研いで簡単に切れ味が戻る包丁が理想です。

金属工学は学校で学んだわけではないそうですね。そもそもどうして刃物工場を継ごうと思われたのですか?


手持ち砥石(といし)での研ぎ。刃の100分の1ミリほどの狂いを肉眼で見分け、最終的には天然砥石で納得いくまで研ぎ上げていく。「毎日進歩するから、今は研ぎがいちばん面白い」

 

金属のことは、子どものころから工場を手伝っていたし耳学問でおぼろげに知っていました。父は金属工学の専門書をものすごく読み込み独学で学んだ人。その父から実際に習ったのは2年足らずですが、私は理論や方法論の裏付けを鍛冶屋の先輩や金属材料メーカーの人に聞いて学びました。特に鑿や鉋を作っている方には会うたびに教えてもらいます。今も裏付けたいことがたくさんあります。

工場を継いだのは、父が高温での工程を見過ぎて緑内障を患い、長年のハンマーの振動で三半規管も弱って耳も聞こえにくくなってしまったから。私は東京で大学卒業後そのまま仕事をしていましたが、家族と共に新見市に戻りました。妻が介護、子育てをしながら工場の仕事も手伝ってくれる姿に、都会での享楽的な気分は一変。感謝し、奮起させられました。

工場で仕事をしてみると、最初からけっこういいものが作れたんです。でも数年後、私が最初の頃に作った包丁を父が出してきてね。見られたものじゃなかった。「まあスクラップを1トンも出せば、鍛冶屋になれるだろ」と言われました。

世界中に「TAKEDA HAMONO」の製品を求めている人がいます。ここに至るまでは決して順風満帆ではなかったとか。どのようないきさつがあったのでしょうか?


「英語? 必要にかられて通訳に聞いてはお客さんに試して、その繰り返しです。アメリカの職人が『最近、英語が上手になったじゃないか。最初の頃は何を言っているのか見当もつかなかったけど』と言っています。今メールの9割は英語。慣れるものです」(写真提供/武田刃物工場)

もともとうちの工場は野鍛冶(のかじ)といって、鎌や鉈(なた)などを作っていたのですが、芝刈り機の登場と造林事業の削減で急激に売れなくなっていきました。皆がバブルで踊っていた頃、私はどん底。切羽詰まって1988年に瀬戸大橋開通の記念博覧会があったとき、商品を持って出展をしました。包装紙を切っていた小刀を「売ってくれ」と言われてね。神主さんが神棚の御幣(ごへい)を切るために注文を受けた小刀です。「へえ、こんなものが売れるんだ」って思い、それから10丁ほど持っていくと、あっという間に完売。

以降は包丁や小刀を物産展で販売。全国百貨店の「職人展」の催事に呼ばれて、年間150日以上は出張。工場は朝8時から夜10時まで稼働して、休みは年に3日だけでした。その後、友人が工場のホームページを作成してくれて英語版も追加。パンフレットも作って、「ラスベガスのナイフショーに行こう」って話になっちゃった。2回目はアトランタ。会場で伝統的かつ斬新で宝飾的な何百万もするナイフを売っているブースの主人がお客さんを連れてきてくれました。「ここのはいいから買え! 買えばわかる!」って(笑)。それから小刀も包丁もナイフもアメリカとヨーロッパで売るようになって、徐々に海外にシフトしていきました。SNSのおかげですね。

武田さんは製造と販売を一貫して手掛けられています。それは鍛冶職人であると同時に工場の経営者であるという立場からでしょうか?


(上)「武田刃物工場」のポスターは漫画家の江口寿史氏によるもの。バッグ、ステッカーなどのグッズも好評。(下)工場の看板には刃物の刻印と同じハートマークが。昭和20年代後半に父が入れ始めた。「奇抜さを狙ったんじゃないかな」

もちろん、そうです。職人はものを作っていればいいってわけじゃない。職人はお金のことを言わないもんだと思われがちだけど、私にとっては経営者ということが一番大事。従業員のためにもね。だからリーマンショックがあったときにも、為替レートに左右されないよう一晩で値段設定を円建てからドル建てに変更しました。
うちの製品は値付けの高い包丁なんです。いい製品を作るために何百キロというスクラップを出して、失敗を重ねた分が含まれているから、どうしても高い代価になってしまう。なのに和包丁を販売する海外のインターネットサイトの中には、うちの包丁を全て値引きして売った強者(つわもの)もいます。小売店としてもうけはゼロなのに、「TAKEDA HAMONOを並べることで信頼が得られるからいいんだ」と言ってくれて。ありがたいことです。

「鍛冶屋の弟子」という響きに憧れて、よく若い人が訪ねてくるそうですね。弟子になりたいという子どもがいたら、どんなアドバイスをされますか?


現在、武田刃物工場の従業員は家族も含めて5人。「うちは残業もほぼない超ホワイト企業です(笑)。ただし仕事の現実はひたすらルーティンだし、面倒なことの繰り返し。従業員でも覚悟が必要です」

私は必ず「従業員になりたいの? 弟子になりたいの?」と聞きます。すると10人が10人とも「弟子にしてください」と答えます。でも弟子は、残業しようがパワハラだろうが「修業だから」って理由で我慢しなきゃならないブラックな世界。しかも鍛冶屋は独立するのが難しい。鍛冶屋の工場を一から造ろうとしたら、何千万単位のお金が掛かります。産地に行って空いている工場を借りるとかしかできないんです。
ただ、どうしても「弟子」にこだわり、何かを突き詰めたいという思いが強いのなら、習うべき人を探すことから始めたらいいんじゃないかな。

取材・文/編集部 写真/鵜澤昭彦