古典絵画を復元。模写制作を担う傑出の人

2019.08.28 わたしのしごと道

[古典模写制作者]加藤純子(かとうじゅんこ)さん

1948年生まれ。東京芸術大学大学院日本画科修士課程修了。主な復元模写に78年「源頼朝像」、85~98年「瑞巌寺(ずいがんじ) 障壁画」、2003~05年「源氏物語絵巻」、2006~07年「一遍聖絵(いっぺんひじりえ)」、1999年及び2016年~「紫式部日記絵詞(むらさきしきぶにっきえことば)」などがある。1992年より名古屋城本丸御殿 障壁画の復元模写に取り組む。2018年に本丸御殿復元工事が完了し、「竹林豹虎図(ちくりんひょうこず)」などの復元模写障壁画が公開され、注目をあびる。


御殿障壁画は部屋をぐるりと囲むパノラマ絵画。ひとつの部屋ごとに、ひとつのテーマで描かれている(名古屋城本丸御殿 玄関一之間「竹林豹虎図(復元)」)

名古屋城本丸御殿は1945年の空襲で焼失しましたが、ふすま絵など取り外せるものは燃える前に運び出していました。名古屋市は1992年に障壁画すべてを制作当時のままに復元するという壮大な企画を立ち上げました。名古屋城に寄せる多くの人の熱い思いが形となってスタートした事業です。
私は30代後半から瑞巌寺(宮城県松島町)本堂障壁画の復元模写に従事していましたが、それを名古屋市の方がご覧になり、名古屋城の事業に携わることになりました。2018年の本丸御殿再建に伴い、それまでに完成した復元模写が一般公開されましたが、本丸御殿の復元模写がすべて完成するまでには、あと10年はかかる予定です。
名古屋城本丸御殿の障壁画は慶長期末から寛永期にかけて(17世紀前半)の絵画で、瑞巌寺障壁画と時代が重なります。江戸初期絵画の復元模写にトータルで40年近いキャリアを積ませていただき、大好きなテーマに巡り合えた喜び、自分が生きてきた時代の幸運を思わずにいられません。

復元模写とは、どのようなお仕事でしょうか?その魅力、やりがいを感じる瞬間などがあれば教えてください。


「名古屋城本丸御殿障壁画の復元模写は、私たち日本画家からすれば学習模写ですが、事業主である名古屋市からすれば、唐の官立模写工房が目指したものに近いかもしれません」 (名古屋城本丸御殿 上洛殿三之間「雪中梅竹鳥図(復元)」。原本は狩野探幽作)

そもそも模写は絵描きが古典絵画の表現方法などを学習する側面と、保存すべき原本の代わりに設置や活用をすることで名作を災害などから守るという実用的な使命があります。中国・唐の時代には盗難や戦乱などの破壊から工芸品を守るために、官立模写工房がありました。
模写には「復元模写(制作当時の状態を想定した模写)」と、「古色模写(絵の具の変色や汚れなど経年変化も含めた現状を模写)」があります。復元模写の魅力は「ただのレプリカではない」ということです。模写は、原本の作品から受けた質の高い感動を表現しています。模写をした作家の受けた感動が、原本の持っている魅力の上に二重写しするかのように見える作品は本当に感動します。古典絵画のオリジナルは文句なしにすばらしい。でも模写作品には模写作品の、別の楽しみがあるんです。
自分が制作するときも、質の高い感動を絵に反映できたときが喜びですし、実に楽しく、やりがいのある仕事だと感じます。

美しく復元された名古屋城本丸御殿のふすま絵ですが、復元模写が完成するまでに、どのような制作過程があるのでしょうか?


加藤先生の指導のもと、名古屋城本丸御殿障壁画復元模写制作共同体のスタッフと共に作業をする。(上)原本の写真を見ながら、金箔部分の下図をトレース。(下)絵筆で慎重に彩色を施す

まず古典作品の原本を拝見する「熟覧(じゅくらん)」から始まります。最初に原本を見て感動するというプロセスがいちばん大事なことで、そのときに受けた感動を実現していくのが復元模写と言っていいでしょう。文化財なので原本を熟覧できる時間や回数に制限がありますが、できる限り何度も見せていただき下図などで試作を重ねます。
次に写真などから線描などをトレースして雁皮紙(がんぴし・絵画に使う特別な紙)や竹紙(ちくし)などに写していきます。その過程は極力、当初と同じ材料、技法、プロセスで描いていきます。紙も科学的に紙質調査をして特別に漉(す)いた物を使います。
長い年月の間に傷んだり、修復で付け加えられたりしたものを排除して、当時の人が目指した美しさに必死になって迫っていきます。独りよがりに解釈することは許されません。当時の画家が目指したものに自分が同化していくような、それが自分の感動でもあるような、その両方が合体した視点が復元模写には必要です。

奈良時代から江戸時代まで、いろいろな時代の復元模写を手がけていますが、時代ごとに画法やスキルの違いはあるのでしょうか?


(上)辰砂(しんしゃ)、緑青(ろくしょう)、群青(ぐんじょう)などの岩絵具が並ぶ。古典絵画の顔料は、昔はヨーロッパやアジアでも使われていました。(下)いろいろな形態の絵筆や刷毛(はけ)

古典絵画を見ていると、日本の古典絵画は日本の美意識の流れの上にあることがわかります。私が彩色復元に関わった「正倉院 伎楽面 酔胡王(ぎがくめん すいこおう)」や、「興福寺 阿修羅像」は飛鳥から奈良時代。当時の制作者が日本人か渡来人かわかりませんが、大陸のものに様式的には似ていても、「どこか日本的」。その「どこか日本的」が、「どんどん日本的」になっていきます。平安時代には日本独自の発展をとげて、名古屋城にあるような狩野派の障壁画というものに展開していきます。
基本的に絵の具を使う伝統的な仕事として、筆遣いなどのスキルはそれほど変わらないですね。下図のあたり方など作画過程でのスタイルは時代によって微妙に変化しているものもあれば、連綿と大昔から変わらないやり方もあり、それを時代ごとに発見していくのが面白い。「あ、昔やっていたこの技法を、名古屋城でもやっているのね。私たちだけが知っているのよ」と(笑)。関心を持って見ているから着目できることです。

一般にはなかなか知る機会がない復元模写の世界ですが、どのようにして復元模写に関わるようになったのでしょうか?


「その後、奈良、平安、鎌倉、南北朝から江戸まで、あらゆる時代の古典的作品を模写する機会を得られましたが、これは幸運だったとしか言えません。日本画の自由制作はしなくなりましたが、まったく惜しくはありませんでした」

幼い頃から絵は好きでしたが、職業にしようとは思っていませんでした。「せめて得意分野を仕事に」という中学の美術の先生の勧めで工芸高校のデザイン科に進学しましたが、彫刻や油絵、日本画などの美術分野が充実した授業内容で、中でも日本画に強く興味を持ちました。
高校卒業後は経済的事情から、生計を立てながら独学で日本画学習を両立しようと模索しましたが、基礎となる教養の必要を感じ美大受験することに決めました。ゴルフのキャディーなどのアルバイトをしてデッサン研究所の授業料、受験や上京費用なども自分で工面し、東京芸術大学の日本画科に進学しました。
芸大で古典模写の授業にとても関心を持ち、大学院では日本画制作と古典模写の両方を行う科を選択。そこで恩師の吉田善彦先生に出会い、古典模写の魅力に取り付かれました。卒業後、大学院の助手を4年間しましたが、その間に恩師の推薦により「国宝源頼朝像」を模写する機会を得て、はじめて模写の仕事で画料をもらいました。
この時でも一生の仕事にできるとは思えず、その後もしばらくは自分の絵画制作や他のアルバイトをして生活しているうちに、十数年がかりの模写事業「松島瑞巌寺障壁画復元模写」に巡り合いました。

絵を描くのが大好きで、「いずれ絵に関する仕事にしたい」という子どもがいたら、どのようなアドバイスをされますか?


「復元模写は、自分ひとりの絵画制作の自己満足的なよろこびとは違うよろこびがあります。名古屋城本丸御殿障壁画復元のような事業を通して、古典作品の当時の姿をどなたでも見られるようにするという社会的な意義があると感じます」

今から「アートの分野を将来の仕事にする」と決めなくてもいいと思います。好きなことを追求しているうちに、その時々の思いや情熱、または人との出会いで方向性は決まっていきます。私の仕事もそうですが、振り返ってみると、漠然とした幼いころの夢はかなえられたと思いますが、それは計画したものではありません。
絵が好きだということは人生において、大きな幸せです。その思いを手放さずにいようと思うことは大切なことです。それで食べていけなくても、情熱を持って続けていけば、何かしらの形で好きなことが実現するでしょう。趣味でもいいんです。充実した生き方ができると思います。美術や音楽のような分野がもたらしてくれる感動や喜びは、人生を豊かにしてくれます。
私自身が誇れることは才能でもなんでもなく、関わっている仕事を死に物狂いにやってきたということ。一番好きだから、一番頑張った。それが自分の幸せにつながっていたと、それだけは言えます。

取材協力/名古屋城総合事務所 取材・文/米原晶子 写真/武藤健二