チンパンジーの記憶力 9つの数字を一瞬で暗記

2019.08.02 わたしのしごと道

[理学博士]松沢哲郎(まつざわ てつろう)さん

1974年、京都大学文学部哲学科卒業。理学博士。78年から「アイ・プロジェクト」と呼ばれるチンパンジーの心の研究を始める。チンパンジーの研究を通じて人間の心や行動の進化的起源を探り、「比較認知科学」と呼ばれる新しい研究領域を開拓。2016年に京都大学霊長類研究所を退職後、京都大学高等研究院特別教授に就任。

チンパンジーの心の研究をされていますが、具体的にどんな研究内容でしょうか?


ギニアのボッソウ・ニンバの森の長期観察研究によって、野生チンパンジーに石器使用の文化があり世代を超えて伝播していることを発見 (写真提供/松沢先生)

「人間とはどういうものなのかを知りたい」と思ってチンパンジーの研究を続けてきました。
人間が現代社会で向き合っている問題があるとすれば「人間はどんな生き物として進化してきたのか」を解明することで、本来あるべき姿が理解できるのではないかと考えたからです。でも人間だけを見ていてはわからない。約500万年前までは人間と同じひとつの生き物で、ゲノムの塩基配列が98.77%同じチンパンジーと比べることで浮かび上がってくるのです。
「アイ・プロジェクト」と呼ばれる、コンピューターで知覚・認知・記憶や言語などを人間と比較する「実験研究」と、ギニアの森で野生のチンパンジーの道具使用や文化を観察する「野外研究」を行っています。そこで浮かび上がってきたことは、「想像する力がある。それが人間なんだ」ということです。想像する力があるからこそ、人は絶望もするが希望をもてる。そして互いに思いやり、分かち合える優しさもあるんです。

京都大学の哲学科を卒業されています。チンパンジーの研究とはつながらないような気がしますが。


コンピューターの実験課題をするアイの様子を観察、記録をします

「人間とは何か」ということを知りたいわけですが、それは哲学者のデカルトもカントもヘーゲルもみんな考えてきたことです。でも同じじゃつまらない。「人間を知るためにチンパンジーを研究する」というのは誰もやってないからこそ、研究になるのです。
チンパンジーとの出会いは偶然です。哲学科にいましたが、心理学や認知科学など心の科学的な研究をやろうと思って大学と大学院を過ごしました。たまたま京大の霊長類研究所で心理学研究部門の助手になり、霊長類の心理学をやろうと思っていたら、たまたまアイというチンパンジーに出会いました。学問を目指して、ひとつひとつやっていったら、26歳のときに偶然チンパンジーと出会ったのです。そこからはチンパンジー研究一筋ですが。その時まで、「大きくなったら“チンパンジー研究者”になろう」と思っていたわけではありません。「学者になろう」とは思っていましたが。

大学に入る時点で、すでに研究者になりたいと思っていたんですね。


じゃんけんで勝った方を選択できるかという実験も。チンパンジーと人の手、手の裏表など微妙な違いも見分けます

もちろんです。そうじゃなきゃ哲学科に行きませんよ(笑)。
「学問を志していたが、やはり違うな」と思って一般企業に進路を変える人もいるかもしれませんが。学問をしたいと思うから学問をするわけです。大学教授の給料は高くありませんが、24時間自由なので、そのすべての時間を学問に費やします。
「その人しか研究していない。その人しか知らない」という、その一点を突破するのが学問であり、研究なんです。研究者はみんな論文を書きますが、ほとんど誰も読みませんよ(笑)。世界中で読むのは15人か20人でしょうか。しかも英語じゃないと10人も読まないから英語で書くわけで。でもどんな小さなテーマだとしても、論文には新しい何かが書いてあります。そこにたどり着くということは、途方もなく膨大な海の中から氷山の一角が水面に出てくるようなものです。論文として出てくるのはほんの一部で、その水面下での、ものすごい努力が研究者には必要ですね。

大学時代は山岳部ですが、もともと自然とか山に登ることは好きだったんですか?


研究棟に併設された運動場にて。松沢先生の「フーホー」という呼びかけにチンパンジーが応えます。検査は彼らの意思を尊重するので、嫌ならここで寝ていることも

自然と関わるのは身近だったし好きでしたから、そういう学問ができたらいいなと思っていました。学問の本質が「まだ、誰もやってない新しいことをすること」だとしたら、山登りでいえば、初登頂なんですよ。ただやみくもにコンパスも持たずに歩いても、頂上には絶対に着きません。まず山というものを俯瞰で見て、かつ文献を調べ、未踏の山を見つけないと初登頂できません。山登りで初登頂を目指すことと、あまたある学問の中から未解決の部分を探し出して新発見をすることは全く同じだ、ということに山を登りながら気付くわけです。
必要なものは全て山から学びました。だから、「学部はどちらですか?」と聞かれたら「山岳部です」と答えるくらい(笑)。山岳部の生活の中で学んだことは「パイオニアワークをしなくてはいけない。そのためにはオールラウンドでコンプリートでなくてはいけない。ステップ・バイ・ステップ、デイ・バイ・デイで」ということ。何でもできないといけないんです。

研究の中で「すごい発見」というのはどんなことでしょうか?


複数の数字が画面に出て、一番小さい数字を触ると数字があった位置が白い四角形に置き換わります。数字の順にタッチできるかを検査(写真提供/松沢先生)

「チンパンジーは一瞬で消えた複数の数字を記憶できる」ということを実験の中から見つけました。9つの数字も一瞬で覚えられますが、人間には難しいですよね。そのチンパンジーの記憶力は、なわばりをパトロールしているときに隣の群れのチンパンジーがどこに何頭いるか瞬時に判断したり、赤い実が木のどこにあるのかパッと見て効率的に登る枝を選んだりするためにとても重要なんです。
誰も知らないことを見つけたという意味で新発見ですし、もうひとつ重要なことは、「人間にはできないがチンパンジーにはできることがある」ということを見つけたことです。今までの研究は「人間ができることをチンパンジーができるか」を見ていましたから。無意識的に「人間が一番賢い」と思っていたところに、「チンパンジーが賢い」ということを発見したのです。

「研究者になりたい」という子どもがいたら、どんなアドバイスをされますか?また親はどんな心構えが必要でしょうか。


実験の記録や野外研究の観察、自分自身の一行日記などを3色ボールペンで詳細に記録。「記録することは記憶になり、客観的にもなれます」

研究者になるということは、陸上でいうと10種競技をやるようなものです。速く、長く走り、高く、遠くに跳ばなくてはいけませんから、健康な体力を養っておきたいですね。また学問には「あきらめない」気持ちも必要です。あきらめた時が終わりですから。そのためには「好き」なことをやり続けることです。
大学は「ユニバーシティ」なので、いろんなことを広く学べる場です。その中でやりたいことを選び取って20歳で人生を決めても遅くはないと思います。小学校から高校までは全てのスキルを学ぶ場として大事ですね。語学や計算は学問の基本ですから。
もし子どもの進路に反対する親御さんがいらしたら、「子どもは大人のおもちゃではない」と言いたい。子どもが好きなことをやりたいというときに、親が止めることはできません。文学部に行ったら就職が厳しいなんて昔から言われていたことです(笑)。でも、「枕草子を読みたい、源氏物語を研究したい」という気持ちがあるのに、別のことをさせると心が健康でいられなくなりますよ。

取材・文/米原晶子 写真/武藤健二